フジロックが政治的だと言われている原因を想像する
どこに政治色があるのか
上の記事を見た時、今年のフジロックのどこに政治色があるのか知らなかったので調べてみた。
今夏開催される野外フェス「フジロック・フェスティバル’16」に学生団体「SEALDs」の奥田愛基氏やジャーナリストの津田大介氏らが出演することに対し、ネット上では一部から「フジロックに政治を持ち込むな」「音楽の政治利用」などと批判の声があがっている。
どうやらSEALDsの出演が明らかになったことが理由の模様。
とばっちりを受けた津田大介
しかし、津田大介はとばっちりだ。
なぜなら昨年も(もしかしたらそれより前も?)フジロックに出演している。
この場でもミュージシャンによる政治的な関わりについての議論が行われたようだ。
「Twitterとか見ていると、なぜミュージシャンが政治的なことをやるとあんなにバカにされるんだろう、と。バカだと思われているのでしょうか」と津田が投げかけると、細美は「そういう人たちは、本来見ないといけないことから目を逸らしたい、目を逸らしたままいたい、というだけなんじゃないのかなと思う」「それが全体の総意かといえば、絶対にそうじゃない。Twitterとかには表層的なラウド・マイノリティがたぶん表に出ていて、その後ろにサイレント・マジョリティがごっそりいる」と考えを述べた。
つまり今年に限らず(少なくとも去年は)フジロックに政治色はある。
とはいえ、「政治色があるフジロックは嫌だ」という感想を持って発言するのは自由である。
二つ目の記事でアジカン後藤が言っているように。
「リスナーは自由に言っていいと思う。そういう意見に忖度するかどうかも、作り手の自由」
SEALDsへの拒絶反応
去年と比べて今年の批判が多いのであれば、比較すればSEALDsの出演に依るところが大きいと推測できる。
津田大介はよくて(少なくとも去年は批判されていた覚えがないのでよいとする(批判されていたとしても今年ほどではないだろう))、SEALDsがダメな理由は何か。
下記2点と推測する。
- SEALDsは音楽に関わりがない(少ない)
- SEALDsを嫌いな人が多い
SEALDsは音楽に関わりがない(少ない)
フジロックは音楽イベントである。
しかしSEALDsは音楽アーティストではない。
ここにまず最初の違和感があるのではないか。
じゃあ津田大介はいいのか?というと、コアな理由とライトな理由2つ考えられる。
コアな理由は、彼がナタリーの運営元であるナターシャの共同創業者であるということ。
今は音楽だけでなくコミックやお笑いも取り扱っているようだが、当初は音楽だけだった。
SEALDsよりは遥かに音楽に関わりがある人物だ。
(より遡れば音楽配信メモも。)
ライトな理由は、彼が司会をやったりTVでコメンテーターをしていたりするから。
なんとなくフジロックに出る「正統性」があるように思える。
しかしこっちは「音楽に関わりがない(少ない)」かどうかに関係ない。
コアな理由で書いた情報を知らない人は、津田大介も音楽に関わりのない金髪野郎と思っているのかもしれない。
SEALDsを嫌いな人が多い
津田大介を嫌いな人もいるだろうけれど(そしてそれなりに多そうなイメージだけど)、SEALDsを嫌いな人のほうが多いイメージが強い。
嫌いではないけれど、好きでもないしどちらかといえば嫌い、くらいの人が多いのではないかと想像する。
これを検証するのは難しいけれど一つの参考として、togetterで「sealds」で検索してみると、批判的なまとめが多い。
とはいえ、togetterが偏っているのではと言われるとグゥの音も出ないくらいその可能性はある。
グゥ
SEALDs嫌い、SEALDsは「政治的」、「政治的」なフジロック嫌いという思考になってしまっているのではないか。
政治的とは何か
を、書きたいと思ったけれど、長くなって疲れたのでまた今度書く(フラグ)。
余談
なんか津田大介の話が多くなったけれど、別に好きなわけではありません(嫌いでもありません)。