教祖誕生: Creepy Nuts(R-指定&DJ松永)

最近名を上げてきたCreepy Nuts(R-指定&DJ松永)の教祖誕生。

冒頭がキングギドラのスタア誕生でやたら懐かしかった。

教祖誕生の冒頭は、「教祖誕生 無感情な商売繁盛」。

スタア誕生の冒頭は「スタア誕生 無感情な商売繁盛」。

フローもk-dub風で完全インスパイア。

いいですね。

Re:なんで勉強するのか

自分が子供を持てるかどうか知らないが、子供を持って同じような質問をされた時に困らないように考えを整理しておこうと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20170204225930 の記事を見ての感想である。

こういうことを考える機会を与えてくれたことを感謝したい。

論理的な話ができていて、頭のいい娘さんだと思った。

娘さん(この言葉を復用するのは違和感があるので今後「彼女」と書く)が「なんで勉強するのか」と質問したときの「勉強」というのは学校での勉強のことでないかと思う。

増田が追記でも書いているが、「学問」ではなく「勉強」のことだろう。

彼女が「学問」をどう認識しているかは分からないが、中学2年生であれば学校での勉強、彼女からすれば学校から強いられる勉強の話をしている可能性の方が「学問」の話をしている可能性より高い。

以下、彼女が「なんで学校で強いられる勉強をする必要があるのか」と聞きたかったという前提で考えを整理する。

学校での勉強は、国のためであり自分のためのものである。

学校での勉強は、将来の日本国を作るために必要なものである。

だからこそ、学校での勉強では、来るべき時代に日本国で生きていくために必要な知識と選択肢を得られる。

学校によって差があるにせよ(例えば慶應をエスカレーターする人々は結構な逸脱かもしれない)、基本的にはこういうスキームだ。

学校での勉強は、将来の日本国を作るために必要なものである。

小学校・中学校・高等学校の勉強は基本的に学習指導要領に沿ったもので、学習指導要領は文部科学大臣の要請の元に中央教育審議会が策定する。

学習指導要領は日本政府としてこの国をどうしていきたいか、そのためにどういう人材が必要か、という観点で策定される(と期待する)。

こういう理由で作られた学習指導要領に沿った学校での勉強というのは日本国にとって有用と期待される人材をつくるためのものである(小学校・中学校・高等学校だけでそれがつくられるわけではないが)。

学校での勉強では、来るべき時代に日本国で生きていくために必要な知識と選択肢を得られる。

上に書いたような理由で学校での勉強は日本国にとって有用と期待される人材を作るためのものなので、その勉強をしておくことは未来の日本で生き抜く(稼ぐだけでなく、社会で生活する)ための知識を得るための効果的な手段となる。

学習指導要領が未来を予言するのかといえばそうではないが、政府の中枢でこの国をつくる人が策定するのだからそうではない人が作るものよりも確率が高い。

別の明確な指針がないのであればこれに沿っておくのは有益だ。

学校での勉強は社会を生き抜くにあたって効率的であり、非効率的である。

学校での勉強は来るべき社会を生き抜くためのカタログのようなものだ。

何を選べばいいか、あるいはもっといい選択肢を知っているのであればそのカタログを一から見ていくのは非効率だ。

何を選べばいいか分からないし他の選択肢も知らないのであればカタログを一から見ていくのが相対的に効率的な可能性が高い。

生を肯定するのであれば社会を生き抜く必要がある。

「社会を生き抜く」というフレーズを何回か使ったので説明しておく。

死なずに満足に暮らしていく、程度の意味で、どれだけ稼いでも稼がなくても、結婚しても結婚しなくても、仕事していてもしていなくても、自分が自分を承認して他人をできるだけ傷つけず生きていくことを表現しているつもりである。

「生き抜く」だけではなく、「社会を」、と付けているのは、人間社会で生きる前提でなければ学校での勉強は必要ないからである(人間社会とは何か、という議論もあるかもしれないが今は食指が動かないので整理しない)。

こうしたら社会を生き抜けるのではないか、という仮説を持ったら試してみたらいい。

学生はカタログを一から見ていくが、その中からこれで社会を生き抜けそう・生き抜きたいというものを見つけたり、カタログ外から何か見つけたら試してみればいい。

それがその人にとって社会を生き抜けない選択肢である可能性はあるが、今やりたいなら今やればいい。

いつかは行なう選択なのだからやりたいときがその時だし、選択に迷うのであればその経験も素晴らしい。

学校での勉強では社会を生き抜くための知識と選択肢を学べるが、あなたは他の選択肢で社会を生き抜くことになるかもしれない。

将来の我が子に今用意した言葉はこれだ。

しかし、国のくだりを説明するのは例えば小学生相手であれば難しいのかもしれない。

その時がきたら、あるいはこないかもしれないが、その時考えることにしよう。

付録

学問は好きだからやる(やってしまう)勉強である。

子供が宇宙が好きで好きでずっと図鑑を読んでいたり、虫が好きで好きでずっと捕まえに行っていたりするとき、これは学問である。

歴史が好きで好きで文献を読み漁って論文を書いてしまったり、化学反応が好きで好きで実験で新しい発見をしてしまったりするとき、これは学問である。

これは思いつきである。

学校での勉強以外の選択肢を見つけるには読書したくなる環境をつくる。

古今東西の良書を物理で集めて一室をつくり、ここで読書する習慣を幼いときからつけておく。

良書は学習指導要領に優ると考えているので、ここに引きこもるのもよい。

もし子供ができたらやりたいことだが、これは思いつきである。

学校での勉強は、将来の日本国を作るために必要なものである、と書いたが、「学校」が今のような形で存続し続ける必要があるかについては別の可能性がありそうだ。

海外に良い学校があるから通信教育させる、ということが一般になるかもしれない。

そこにビジネスチャンスがあるかもしれない(規制が色々ありそうだが)。

これは思いつきである。

政治的とは何か

前回の記事に続いて、政治的とは何かを書いてみる。

wannabefree.hatenablog.com

政治的という言葉が示唆するニュアンス

まずググってみた。

kotobank.jp

政治に関するさま。「政治的な問題」
理屈の上だけでなく、現実に即して判断するさま。「政治的な解決」
駆け引きが巧みになされるさま。「政治的な手腕がある」

ミュージシャンの政治的な発言、といった場合の意味は1だろう。

「政治に関するさま。」

分からない。

「政治」とは何か。

やはりググってみた。

政治 - Wikipedia

辞典・事典類は次のように解説している。 広辞苑では「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力政策支配自治にかかわる現象。」としている[1]大辞泉では「1. 主権者が、領土・人民を治めること。2. ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用。」としている。

広辞苑の説明がわりと端的だったので、さらに辞書を調べてみた。

kotobank.jp

政治とは何か、あるいは政治とは何を意味するかという問いに対する解答は、観察者、研究者のもっている経験や問題意識によって異なる。さらにまた政治ということばそれ自体がもっている語源的な意味に影響される面がある。

(中略)

今日では、政治を「集団の政策(意思)決定過程」とみる見方、あるいはそれに類した規定の仕方が一般的に行われている。 

 「集団の政策(意思)決定過程」という見方で書かれているのが先の広辞苑の説明だろう。

ところで、政治を政策(意思)決定という角度からみる場合、そこに当然「権力」の問題が関連してくる。なぜなら「権力」はラスウェルによれば、「意思決定への参加」にほかならないからである。この面からいえば、「政治」は「権力過程」であり、また「権力関係」という流動的な状況を抜きにしては考えられない。決定作成過程に参加し影響力を行使するには、暴力行使や利益誘導、さらには理性的説得から宣伝やシンボル操作に至るまで種々の方法がある。 

政治には権力の問題がつきまとう。

集団の政策や意思の決定過程に影響力を行使するために色々な手段があるが、それらを行なうための力が必要である。

「政治的」という言葉には、権力による影響力を行使されているというニュアンスが含まれているように思える。

なぜフジロックが政治的と言われるのか

フジロックが政治的だと騒がれるのは、集団の意思決定過程に影響力を及ぼそうとしていると感じ取った人が多いからではないか。

フジロックという場を使って私たちの意思決定に影響を及ぼそうとしている、と暗黙的に感じ取ったから反応が起こったのではないか。

自分は、SEALDsが集団の意思決定に大きな影響を及ぼせる存在だと思っていない。

しかし、今回の反応はSEALDsが集団の意思決定に大きな影響を与えうるという危惧を市民(ある特定の人々かも知れないが、それなりに多くの人(報道によって自分がそう思っているだけかもしれないが))が持っていることが証明されたものだといえるかもしれない。

SEALDsを招く以上、フジロックには政治的意図(意思決定にある方向で(あるいはその逆からの観点も見せることでその議論のトピックへの意識づけという形で)の影響を与えようという意図)があると解釈できるだろう。

政治的意図を持つことは何も間違いではない。

これ(フジロックが政治的意図を持つことではなく、政治的意図の「意図」自体)に反発してフジロックへの出演を取りやめるアーティストが出てもおかしくないのにそういう人はいないんだなと思う。

アーティストがどう解釈するかも自由であって、些末な問題だと考えているのだろうけれど(自分もその解釈を支持する)。

フジロックが政治的だと言われている原因を想像する

matome.naver.jp

どこに政治色があるのか

上の記事を見た時、今年のフジロックのどこに政治色があるのか知らなかったので調べてみた。

headlines.yahoo.co.jp

今夏開催される野外フェス「フジロック・フェスティバル’16」に学生団体「SEALDs」の奥田愛基氏やジャーナリストの津田大介氏らが出演することに対し、ネット上では一部から「フジロックに政治を持ち込むな」「音楽の政治利用」などと批判の声があがっている。

どうやらSEALDsの出演が明らかになったことが理由の模様。

とばっちりを受けた津田大介

しかし、津田大介はとばっちりだ。

なぜなら昨年も(もしかしたらそれより前も?)フジロックに出演している。

fujirockexpress.net

この場でもミュージシャンによる政治的な関わりについての議論が行われたようだ。

 Twitterとか見ていると、なぜミュージシャンが政治的なことをやるとあんなにバカにされるんだろう、と。バカだと思われているのでしょうか」と津田が投げかけると、細美は「そういう人たちは、本来見ないといけないことから目を逸らしたい、目を逸らしたままいたい、というだけなんじゃないのかなと思う」「それが全体の総意かといえば、絶対にそうじゃない。Twitterとかには表層的なラウド・マイノリティがたぶん表に出ていて、その後ろにサイレント・マジョリティがごっそりいる」と考えを述べた。

つまり今年に限らず(少なくとも去年は)フジロックに政治色はある。

 とはいえ、「政治色があるフジロックは嫌だ」という感想を持って発言するのは自由である。

二つ目の記事でアジカン後藤が言っているように。

「リスナーは自由に言っていいと思う。そういう意見に忖度するかどうかも、作り手の自由」

SEALDsへの拒絶反応 

去年と比べて今年の批判が多いのであれば、比較すればSEALDsの出演に依るところが大きいと推測できる。

津田大介はよくて(少なくとも去年は批判されていた覚えがないのでよいとする(批判されていたとしても今年ほどではないだろう))、SEALDsがダメな理由は何か。

下記2点と推測する。

  1. SEALDsは音楽に関わりがない(少ない)
  2. SEALDsを嫌いな人が多い

SEALDsは音楽に関わりがない(少ない)

フジロックは音楽イベントである。

しかしSEALDsは音楽アーティストではない。

ここにまず最初の違和感があるのではないか。

じゃあ津田大介はいいのか?というと、コアな理由とライトな理由2つ考えられる。

コアな理由は、彼がナタリーの運営元であるナターシャの共同創業者であるということ。

natalie.mu

今は音楽だけでなくコミックやお笑いも取り扱っているようだが、当初は音楽だけだった。

SEALDsよりは遥かに音楽に関わりがある人物だ。

(より遡れば音楽配信メモも。)

xtc.bz

ライトな理由は、彼が司会をやったりTVでコメンテーターをしていたりするから。

なんとなくフジロックに出る「正統性」があるように思える。

しかしこっちは「音楽に関わりがない(少ない)」かどうかに関係ない。

コアな理由で書いた情報を知らない人は、津田大介も音楽に関わりのない金髪野郎と思っているのかもしれない。

SEALDsを嫌いな人が多い

津田大介を嫌いな人もいるだろうけれど(そしてそれなりに多そうなイメージだけど)、SEALDsを嫌いな人のほうが多いイメージが強い。

嫌いではないけれど、好きでもないしどちらかといえば嫌い、くらいの人が多いのではないかと想像する。

これを検証するのは難しいけれど一つの参考として、togetterで「sealds」で検索してみると、批判的なまとめが多い。

togetter.com

とはいえ、togetterが偏っているのではと言われるとグゥの音も出ないくらいその可能性はある。

グゥ

SEALDs嫌い、SEALDsは「政治的」、「政治的」なフジロック嫌いという思考になってしまっているのではないか。

政治的とは何か

を、書きたいと思ったけれど、長くなって疲れたのでまた今度書く(フラグ)。

余談

なんか津田大介の話が多くなったけれど、別に好きなわけではありません(嫌いでもありません)。

週の労働時間が40時間を超えると何のリスクが増加するのか

↓の記事について、よくわからないことがいくつかあったので調べてみた

www.lifehacker.jp

何のリスクが増えるのか

これは、記事を読んだら分かった。

健康・人間関係・仕事の生産性についてのリスクが増える。

タイトル読んだ時は業務進行のリスクが増えるという話かと思った(結果、それも含んでいる記事だった)。

「1日の労働時間が」というのは、1日あたりのということか?

・1日の労働時間が10時間を超えた場合、心血管系の疾患にかかるリスクが60%も増大する。

1日だけ10時間働いたとしてもそのリスクは増えないはずなので1日あたりという話である可能性は高い。

(ここに引っかかるのは自分の日本語能力が低いのかもしれない。)

出典元記事によると、 

www.inc.com

  • Working more than 10 hours a day is associated with a 60 percent jump in risk of cardiovascular issues.

 「10hours a day」とのことなので、1日あたり10時間。

この記事はさらに出典元があって、下の資料のようだが、挫折。

http://www.cdc.gov/niosh/docs/2004-143/pdfs/2004-143.pdf

これ2004年の調査のようだけど、2016年現在も変わらないのかな?という疑問はある。

しかしそれは研究者にお任せしよう。

もう一つの出典元は参考文献に2013のがあるので新しそう。

www.circadian.com

残業時間が平均的な企業」の残業時間はどれくらいか

週10時間未満だと考えられる。

In Circadian’s Shiftwork Practices 2004, 31% of shift work companies with very high overtime levels (more than 10 hours per employee per week) had poor morale.

という記載が

www.circadian.com

にあるので。

余談

個人的には、経営者と労働者とでこの結果に差があるのかが知りたい。

経営者の思い込みで労働者に経営者自身と同じような働き方をさせると、労働者は潰れてしまう印象があるので 。